はじめまして。ツキです。
私は現在OLとして働きながらブログやSNSで情報発信をしています。
とは言っても情報発信は始めたばかりで
これから手探りですが頑張っていこうと思っています。
もともとは、美容の仕事をはじめ販売、事務員など仕事は色々と経験しましたが、
これといって特別な才能もなく、つまらない人生だなとずっと思って生きてきました。
けれど、情報発信を始めてから何気ない日常がとても充実して感じられるようになり、
これまでの自分であれば
今日も仕事か嫌だな…
せっかくの休みなのにこんな事に使うのは勿体ない…
と感じ
自分以外の人に使う時間や労力は正直ムダだと思っていました。
そんな私がなぜ情報発信をしようと思ったか、
これまでの生い立ちや仕事を振り返りながら、
これからどんな信念を持って向き合っていきたいかを語らせて頂きます。
母親との関係から自分の本心を口にしないように。
こうやってブログを書いたりしているので自分の感じた事、伝えたい事をハッキリと言えるタイプかと思われるかも知れませんが、全くそんな事はなく
自分の考えがあっても口には出さず、黙っている事でその場をやり過ごそうとしてきました。
そんな私を作ったのは、家族との
特に母との関係にありました。
大人になる事で両親や身近な人に感謝する。という経験はある人も多いと思いますが、
私自身も感謝できるようになったのは大人になって随分たってからです。
私の生まれた家は九州の田舎で、曾祖母、祖父母、両親と弟2人という家族構成でした。
いわゆる「昭和」と聞いて想像するような家庭で
仲は良かったと思いますが、お金を稼いでくる祖父と父の発言権が強く、兄弟間でも男尊女卑はあるような環境で育ちました。
中学生くらいになると、弟達が遊んでいても自分だけ家事をさせられる様になり、
門限もかなり厳しかったです。
何で自分だけ?
と納得いかない事も多かったですが、理由を聞けば反抗していると言われ
父や祖父からゲンコツをされ「口答えをするな」と力で押さえつけられる。
それが分かっていたので半ば諦めの様な感情を抱えながら従っていました。
そんな家庭に嫁いできた母は、あまり自分の意見を言わないというか
あまり自分がどうしたいのかを持っている人ではありませんでした。
本心でどう思っていたか分かりませんが、暴力を止めるなど行動をしてもらった事はありません。
そんな母の性質は受け継がず、変わったところがあった私は、一人で絵を描いたり動物と戯れたりするのが好きで、誰とでも仲良くするタイプでは無かったです。
1人で遊ぶ事も苦にならず、やりたいと感じた事を自由にやっていました。
通っていた幼稚園は自主性に任せるという感じだったので、
仲良くしてくれる子や大好きな友達もいましたし、自由にのびのびとすることに疑問は感じる事はありませんでした。
けれど、母はそんな私の行動を良く思っていないと
幼いながらに感じていました。
友達からの誘いをやりたい事があると断ると嫌な顔をし、
反対に、社交的な弟には優しいなと感じる事も多かったです。
兄弟喧嘩をすると
「お姉ちゃんでしょ」と怒られ、
そこで勝ち誇る弟に腹が立っても怒られるから何もできない…
母親から愛される弟が羨ましく感じながらも
「年上だから我慢するのは普通なんだ…」
「我慢したらきっと好きでいてもらえる」
そう信じて成長するにつれ自分の思った事を飲み込むようになり、
自分の感情に蓋をするまま成長していきました。
「このまま感情を殺して生きないといけないのか…」
小・中と年齢が上がるにつれ、
相手が何を望むのか、どう答えると怒られずに済むかを考え行動することが増えていきました。
「ツキはどうしたい?」
と聞かれる事にストレスを強く感じ、何も言えない人間になっていきました。
本当に思っている事を答えると、母からの視線が痛く
『今の返答は不正解なんだ・・・』
と軌道修正をする・・・。
誤魔化すのだけが上手くなり
何もされても反論しない私は、進学すると共にイジメられるようになりました。
けれど、イジメられている事を言えばまた母を落胆させるのではないか・・・
家族を心配させるのではないか・・・
と家庭では出来るだけ明るく努め生活していました。
誰にも本音を言えず、
あるはずの感情を抑え込んで生活することが苦しくて、
『環境を変えれば苦しくなくなるかもしれない』
と思い、高校は同級生が受験しないような学校を選び進学しました。
高校生活は本当に楽しく自由でのびのびとした雰囲気と、
卒業するまでクラスが同じという事もあり本当に仲が良かったです。
私自身も前向きになり目立つのを嫌がっていたのが嘘のように
文化祭で演劇をしたり、応援団に入ってみたり、絵が得意だったこともあり学校誌の表紙を描いたりもしました。
そんな3年間はあっという間で、卒業後の進路はイラストレーターを目指し進学しました。
隣県の学校に進学が決まりましたが、1人暮らはできず2時間かけて通い、バイトに課題制作と忙しい生活がはじまりました。
とても充実し、ここでも人に恵まれ毎日が楽しくてしかたなかったです。
クラスメイトも個性的な人も多く、次第に自分の意見を言える様になって
自由に思ったことを発言ができる事で、制限が取れ世界を明るく感じました。
『卒業後はこっちで仕事に就いて家族からは離れて暮らそう』
『頑張っている姿を見せたら認められる』
そうやって家族との関係から逃れたいと思い、
なんとか距離を置きくために、誰もが納得する理由を手に入れようと努力しました。
それは家族だけが悪いのではなく、自分に自信のない私が「こうしないと価値がないと思われる」という思考で自分自身を縛っていた事が原因だったと思います。
家族のためにと自分を押し殺した結果
そんな充実した生活を送っていたある日、
私の体調不良を心配した母に連れられ病院行きました。
その待ち時間に暇だからと母もノリで検査を受け、その日は何事もなく帰宅したのですが
後日、母がガンだという事が分かりました。
そのままあっという間に母の入院と手術が決まり、長い入院生活が始まりました。
弟は高校生と中学生で、当然父にも仕事がありますし、家庭内の一切を私と祖母で分担する事になりました。
早朝、朝練前の弟に弁当を作り見送って、ほかの家族に朝食を用意してから自分も学校へ
帰宅後は夕食を用意する、その他の家事は祖母が行ってくれていましたが、
学校からの課題も多く、本当に大変で体力もギリギリ・・・
それでも何とか弟達には不自由をさせまいと頑張っていました。
何とかその生活にも慣れ始めた頃、
祖母までも体調を崩して入院し、とうとう家事をするのが私1人になってしまいました。
それまでもギリギリの状態で何とか母が入院する前と変わらずに維持していたので、こうなると学校に通いながら家庭内の仕事をこなすのは難しい・・・
けれど悩んでいる時間もない・・・
父と相談し私は泣く泣く退学する事になりました。
その後は毎日、家事と母と祖母の服の回収に奔走し
何も考える間も無く過ぎていく時間に追われていたある日、
日課の見舞いに行った際、たまたま来てくれていた叔母に対して母が
「ツキは一人だけ女の子だから嫁に行った後の帰る場所になれるように生きたい」
そう言っていたのです。
今になればその思いが理解も感謝もできますが、
当時は正直、どの面下げてと思いました。
『子供の頃からさんざんコントロールしようとしておいて、叔母の前でさも愛しているかのように見せるなんて』
という感情から言い表せない怒りを感じながらも、何とか表情を取り繕い何とか帰宅したものの、トゲが刺さったようにその言葉が頭から離れませんでした。
それでも何とか母、祖母共に退院するまでを乗り切った事で、
普通の生活を取り戻し、徐々に体力も戻ると共に家庭内での自分の仕事も減っていきました。
特に礼を言われる事も、褒められる事も無かったものの、戻ってきた日常に安心した事で
燃え尽きたようになってしまった私はやる事も目標も失って無気力になってしまいました。
何をする気も起きず、ただ日々が過ぎていく
『何かしないと』と焦りは感じるだけで動けない・・・
そんな私に弟から「何もしないとかいる価値がない」と言われてしまい
その発言に誰も弟を咎めるでも無く、父も母も助け舟すら出してくれない。
『きっと皆、私をダメで価値がない人間だと思っているんだ』
そう自分を責める言葉と共に
オマエこそ、部活も学校も全くペースを崩さず行けたのは誰のおかげだと思ってるんだ
悔しい、何でこんな風に言われなないといけないのか分からない
私が家族を助けたい、役に立ちたいと思って頑張ったのにこんなに認めてらえないんだ・・・
様々な思考が巡るのに、どれも言葉にできない。
抑えていた感情が自分の中で溢れるのに、現状の貢献度の低さから何も言い返せない事でこれまでより固い殻に閉じこもるようになってしまいました。
「本当に変わってるな」
それでも何とか認められたい!と仕事に就いてみるもそれも長続きせず
また冷めた目で見られる。
それが辛くて早く何かしないという焦りもあり、給料が良いという理由だけで明らかにブラックだと分かる企業に勤め消耗する。
(お金に関するコンプレックスもかなりあったので当時は給料の額は重要でした)
『こんな風になったのは病気になった母のせいだ。』
そうやって母を憎む事で何とか自分の精神状態を保っている状態で
文句だけは言われないようにと、すべきことを淡々とこなし周囲の人に心を開くことはありませんでした。
そんなある時、母の同級生だった方のお父様がやっている寺を尋ねる機会がありました。
詳しい説明もなく世間話をするうちに、あまり興味無さそうにしている私をご住職がジッと見てくるのです。
不思議に思いながらも大人しく何を言われるか待っていると
「アンタ本当に変わってるな」
ちゃんと挨拶もしたし、そこから言葉を発してなかったので
どういう事?と不思議に思いました。
後から知ったのですが、人の本質の様なものが見える人で
その後も話の途中で何度もこちらを見る度に
「アンタ変わってるな」と言われました。
家族同士の相性などについても話して下さったように記憶していますが、
それよりも私の評価として「変わっている」と言われるのを聞いたのは
幼い頃以来久しぶりだったので、とても肯定された様な気持ちになり、
そういえば、前はもっと自由で素直に思うままに行動していた事を思い出し
何か吹っ切れた様な気持ちになりました。
それから徐々に活動的になり、勤めていた会社を辞め
自分で生きていく術が欲しい、どうせだったら喜んでもらえる事を仕事にしたいと思い
時間の融通が効くバイトをしながらメイクアップの勉強をはじめました。
そこから2年間、精一杯努力したことで講師のアシスタントとして現場に出たり、
幼い頃は成績が良い方ではなかったのに、やると決めてから座学の成績も常に上位で卒業することができました。
更に運良く外資系のブランドへの美容部員としての就職も決まった事で、自分の人生に光が差し新たな世界で頑張っていこうという希望に満ちていました。
これで頑張って幸せに!……なるつもりが
もがきながらも、好きな事を仕事にすることができ「これから人を幸せにできるような仕事がしたい」という希望を胸に研修後、配属先での仕事が始まりました。
目指した仕事に就き、念願だった自立もした事で自信がつき
このまま順調に進んでいくだろう、そう思っていました。
けれど、それは一気に崩れてしまいました。配属先の上司からのイジメに苦しめられる事になったのです。
勤務開始1週間程たったある日、出勤すると売り上げについてのイヤミからはじまり
次第にそれが容姿にまで及ぶようになっていきました。
憧れて入った職場でしたし、幸いにも優しくしてくださる先輩もいたことで、『まだ始めたばかりで仲間として受け入れられていないだけだ』と自分に言い聞かせ頑張っていました。
何とか上司に認められようと自分の見た目を磨く努力をしながら
売り上げを立てるべく会社に言われるままセットで販売する戦略を地道に行う事で、次第に数字はついてくようになり、売り上げについての嫌がらせは少なくなったものの、
「これから人を幸せにできるような仕事がしたい」と思っていたはずなのに、数字だけを追いかけ相手に必要かも分からないものまで売りつけているかもと思い、モヤモヤする事が増えていきました。
毎日遅くまで働き、ストレスもあったのか肌も精神も次第に荒れていく・・・
朝が来るのがとても憂うつで、部屋を出る時に泣きそうになるのを堪えながら
店に立っていました。
「アナタより私の方がよっぽどキレイ」
ギリギリ保っていた精神のバランスがある日発せられた上司のこの一言で、
崩れていくのを実感しました。
当時、若かった私に自分の倍くらいの年齢の方からのその言葉はとても辛かった。
『もう辞めてしまいたい!』
けど、この仕事を辞めたら何と言われるだろう…
いい会社に入ったから頑張れと言われるかな
せっかく勉強したのにとか
根性なしとか、私がイラつくようなことをするからとか…
かつて言われた事があるような家族からの叱責が頭を巡り
辞めたいのに辞められない、落胆させたくない。
『誰もが納得する辞め方ができたらいいのに』
毎日そう考えていた為かは分かりませんが、帰宅途中に事故に遭って足を負傷してしまいました。
これまで色んな人に甘えていたんだ
かなり後で分かる事ですが、「後十字靭帯損傷」という怪我で、
就業が難しくなったという事でそのまま退職する事にしました。
その後は急遽仕事を辞めた事もあり、実家に戻る事になり
何と言われるかと、ドキドキしながら帰ったのですが拍子抜けするほど両親も祖母も優しく出迎えてくれました。
(実家に救急隊から連絡がいった際に祖母が受けたので会った瞬間号泣でした 笑)
そこから、実際にどういう怪我なのか診断が下るまで半年、そこから内視鏡で手術をしてくれる医師を紹介され、2度の手術と全ての治療が完了するまで3年弱掛かりました。
入院生活とその後の療養期間の間に本当に色々な経験をしました。
入院は色んな人と関わりますしプライベートなんてほぼなし。
そんな状況にも対応できるようになり、保険会社の担当者との交渉でも自分の思っている事はハッキリ言わないと丸め込まれそうになるので、これまで色々と言葉を飲み込んで来た私にとっては大変でしたが何とか乗り越えてきました。
入院中の期間には、県外だったにも関わらず、毎週と言っていい程会いに来てくれた両親と、救急病院まで迎えに来てくれ、見舞いにも来てくれた弟には今でも感謝していますし、
この経験のおかげで強く、柔軟に変わってきたと感じています。
もちろん、心に何のしこりも無いかと言われればそんな事はありません。
けれど
苦しかったり、虚しかったりした経験から今の私は創られているし
これまで起きた事を自分で見つめ直し、これまでとは違う解釈をできる様になった事で、
前よりずっと生きやすくなりました。
私が情報発信を始めた理由
これまでの人生は私にとって楽なものではありませんでした。
主に家族との関係が良くなかった・・・
というより私がそういう見方をしていたというのが正しいかもしれません。
ただ親や兄弟から認められないのが辛いのも
それが原因で自信が持てない、自分が存在する価値が分からないと
感じてしまうのも事実だと思います。
ただ、周囲の人も含め必要な時に必要な助けが得られているラッキーな人間だとも思っています。
こう思えるようになったのは、私の事を
今思えば、「アンタ変わってるな」と最高の肯定をしてくれた方との出会いが、きっかけにあったと
思っています。
今はお亡くなりになっていらっしゃいませんが、
その方の娘さんと交流があり、更に深く自分の事や周囲の人との関係について学ばせて頂いています。
これまで過ごしてきた人生は変わりません。
過ぎた時間も返ってはきません。
けれども、過ごしてきた時間も出来事も捉え方で大きく変わります。
例えば、事故に遭って怪我をしたという事について、
「大切な時間を無駄に過ごした」と取るか
「これまでにできなかった経験をした」と取るかでは大きく違います。
そうやって自分が不満に思ってきた事、
傷付いたことについて捉え直す事で、生き直す事ができると思っています。
そんな、生き方ができたら楽しいし、
なによりずっと楽で楽しい毎日になります。
それに年齢も性別も全く関係ありません。
苦しくて、縛られているような人に少しでも楽になってほしい。
その為に自分の経験がほんの少しでも役に立ったら
そういう思いでこれから活動していこうと思っています。
そんな私自身も、また壁にぶつかったり
挫折しそうになる事もあると思います。
その時はまたもがいて、必死に頑張っていこう。
そして、共に乗り越えていける仲間がいれば心強い。
そうやって一緒に頑張っていける人を見つけて、共に成長していきたいと思っています。